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2016年06月29日

傷つき汚れた私でも

「骨まで愛して」という唄がある。
この歌詞を見て直截な連想をされると間違いである。
これは「私(僕)が死んで骨となりお墓に行くまで愛して」という意味である。

この唄は昭和40年、いかにもマッチョな城卓也が絞り出す様に歌って大ヒットした。
まさに昭和元禄の演歌である。

何回かブログで話題にして辟易とされたら許して頂きたい保濕產品
多分自分の中で歌詞に深い拘りがあるのだろう。

「何にもいらない欲しくない
あなたがあれば 幸せよ
傷つき汚れた私でも
骨まで骨まで愛して欲しいのよ」

20歳の健康そのものと自他共に認める私は、この唄を聞いてボロボロ泣いた。

ところは早稲田に近い高田老松町(現在この町名はない。昔の旗本屋敷があったところだ)の女ばかりの下宿。

下宿の奥さん含め、跡見、本女、早稲田の女の子はうっとりと城卓也に見入った肌膚彈性

「傷つき汚れた私」はまさに私と私は思ってた。
と言っても肉体的意味ではない。

当時私は好きな人と手も触れない状態でいた。
そしてマズイ告白ばかりして失恋した。

かなり傷ついた。
私はダメだ。
ブスだ。
性格が悪い。
ズタボロである。
友達が「あなたってプライドがない」と言う。

これが傷つき汚れた事と言えば、通り一遍である個人化護膚

実はもっと本質的な原因があった。
私は目の前で繰り広げられる両親の男と女の戦いによって、幼い頃から「ねぐら」を喪った気持ちがあった。

嫌らしい男女関係から逃れ、家庭に帰りたい。
こういう動機で一心に好きになるから相手は逃げ出す。
何故なら皆ホワホワしたロマンスを求めているから、真剣そのもので飛び込む女は怖いのである。

「生きてる限りは何処までも探し求める恋ねぐら」
これは一番の歌詞だが、今、遅過ぎたが、はっと気がついた。

何故、作詞家川内康範は「生きてる限り」としたのか?

結婚しても、傷ついた心を癒すねぐらにお互いがなるのは難しい。
つまり、最晩年に、安らぎたい思いを書いた。

こう思うのは深読み過ぎだろうか?

人生で一番健康な時代に健康な人々と楽しんだあの唄は、今もウルウルと私をさせる。
  


Posted by oneth at 16:26Comments(0)

2016年06月16日

禿頭考

こんばんわ~歴史研究部でございます~^^
最近は民俗学友の会の人と一緒に読書してましたが、なぜか、民俗学さんばっかり語っておりました。
私が考察しても良いような内容なんだけど、民俗さんも、出番が少ないから、譲っておりましたw
最近、なんの話からそうなったか忘れましたが、妹が、
「どうして江戸時代の人は頭をそっていたんだろう?」
というようなことを言っておりました褐藻糖膠
別に知りたいわけじゃないでしょうに、(妹は歴史が苦手)今の常識を何も疑わないで発言していたのが気になりました。
話は飛んで、ミシェル?フーコーに関する内田樹氏の本を読んでおりましたが、
歴史を、いま、ここ、私、を起点にして考慮する仕方に疑問を差しはさんでおられました。
いま、ここにいる私が抱いている常識は歴史を経て初めて常識となったのであり、それゆえ、いま、ここ、私を起点に歴史を考慮するのは間違っているという内容でした(多分)。
それで、それを、妹の疑問に当てはめて考えたくなったのですw
妹に聞かせるわけではないのですが、頭のてっぺんに毛がないのがかっこ悪いという感情は、江戸時代以降に生じたものでしょう。(多分)
では、どうして、江戸時代の人は頭を剃ったのか。
専門知識がないのに語りますが、なんとなくこうだったのではないか。
まず、戦国時代に兜を頻繁にかぶる武士たちが、兜をかぶっていない時よりも兜をかぶる時の方が多いので、長く兜をかぶっていても不快ではないように頭を剃った。
次は、兜を頻繁にかぶって戦を頻繁に行う武士は武士の鏡という考えが広がった。
それゆえ、頭を剃ることが、勇猛な武士であることを表す記号になった。
後に、頭を剃ることは、武士であることを表すものになっていった。
時代が安定すると、公務に着く武士は頭を剃るのが一般的になった。
それが庶民に広がった。
頭を剃っているのは江戸時代の人ばっかりではなく、中国の清の男性も剃っている。
ラーメンマンみたいな髪型です。
頭を剃るのがかっこ悪くなったのは、欧米がアジアに進出してから後のことであるのではないでしょうか。
今の自分からばかり過去を見ていると気付かないけど、江戸時代から今を見たら、どう見えるのでしょうね。
  


Posted by oneth at 12:28Comments(0)

2016年06月06日

おじいさんになりたい小学生

お若い方から、蝶ブログをリンクしていただき、とても光栄です。
「とても光栄である」と書きたいところだが、「です」「ます」体で表現したい気持ち。

で、お若い方の年齢は、まあ、なんと、わた健康飲食
しのこどもたちと同じ世代。

わたしには、アラサーの男女3人のこどもがいる。
こども、といっても、大人であるが。

このアラサー3人。
わたしに似ているのか、似ていないのか知らないが、ほんの少しだけ変わっている。

息子。
彼は、小学生の時から「はやく、おじいさんになりたい」と言っていた。
今、毎日、彼の願いは、どんどん目標に近づいてきている。
こういう目標って、なんの努力もしなくてい適量運動いから、いいなあ、と、不思議なわたしの感想。

しかし、今は、まだ彼はアラサーで、おじいさんではないので、まだまだ目標はほど遠い。

下の娘の同僚で、この息子の元?高校の同級生とやらがいるそうだ。
その元?同級生の弁によると
「彼は、あんなに純粋だと、社会で生きていけないんじゃないかと心配します」
とのこと。

当時の中?高校生のまんまだと、生きていけないだろう。
雑菌だらけの我が家で、しかも超おおざっぱな暑期數學手抜き子育てで、なんであんなに純粋に育つのか、
親の顔が見たいところだが。親は私なので、ナゾは深まるばかり。
雑菌対応システムがオートセルフで組み込まれているのか。 あくまで、対応であって、自動除去装置ではないはず。

小学生の時は、クラスの同級生のおかあさんに、
「うちの息子みたいな乱暴な、トモダチのいない子にも優しくしていただいて、
とてもありがたく思っています」
と言われたような気がする。

別のおかあさんには、「どうやって育てると、ああいうふうになるんですか?」
と、筆記用具を携え(うそです)、メモメモ態勢の人もいた。

高校を卒業し、進路が決まったある日、
息子が居なくなった彼の部屋で、
「ああ、これで子育て卒業。子育て戦争終了」と感慨深く、ひとりで呆然と座っていたわたしがいた。

高校を卒業して、別に住むようになって、もう長い年月が経っている。

たまに帰省したりすると、息子に、おちょくられたり、からかわれたり、わたしは悪戯のターゲットになる。
生活様式について、咎められたりもする、世の中によくいる(らしい)姑のようなこともする。

あまり息子のことはよく知らないのだが、摩訶不思議な人物であることは確かだ。  


Posted by oneth at 13:15Comments(0)